ただの取引媒体に、人生をかけて得ようとする価値はあるのか。

前回

人が人であるために

私が肯定したいのは人のほうです。私が価値を見出したいのは人のほうです。お金ではありません。お金が絡むことで人に失望させられるくらいなら、お金を悪者にしたほうが、まだ気が楽です。もっとも、そのお金は人間が作り出し、運用しているものである以上、人の悪性を認めざるを得ません。

お金が汚いのは、そのまま人が汚いということです。その感覚があるなら、問題意識も持てるでしょう。改善へ向かう意識を持てるでしょう。ならばきっと、今より良くしていくことができるはずです。何をすれば良くなるか。それを見定めることができるはずです。だから私は「お金は汚いものである」と言います。

そもそもキレイとか汚いとか、そういう話をしても何にもなりません。好きか嫌いかを語るのはべつに構いませんし、一定の意味もあるでしょう。けれど、どうせなら、自分はお金とどう向き合うべきか。それを判断できるところまで落とし込みたいものです。それを自分で考え決めることが、人として生きることにつながるでしょう。

人の価値

考えることをやめ、誰かに委ねることは、自分の価値を放棄することと同じです。自分の価値を損なうことは、社会の価値を損なうことにつながります。人の価値を失うことは、人が作った通貨の価値をも失わせます。

せめて思考くらい何にも支配されず自由でありたいものです。そうして産まれた多様さが、そのまま価値となって増えると信じたいです。インターネットでそれらがつながるはずだと思いたいものです。分散ネットワークが、それを確かなものにしてくれると信じたいのです。

自分のやっていることには意味や価値があると思いたいものです。その願いが、価値という幻想をとりもどすために必要なものではないでしょうか。お金の正体は価値という信仰なのだから。ならば私は現実をみるだけでなく、その現実にあらがわねばならないのでしょう。信仰とは、現実逃避であり、現実とは違うものをみることです。お金とは人の願いです。私たちが人として大切な信仰を失ったから、お金の価値も消えたのではないでしょうか。

お金自体に価値はない

泣き言や胡散臭いスピリチュアルな話はひとまず置いといて、つぎは現実的に物理的にみてみましょう。

冷静にみれば、お金はただの取引媒体であって、それ自体に価値はありません。紙幣や硬貨は食べられず、腹の足しにもなりません。おにぎりのほうがいいです。尻を拭くにしても固くて痛いです。トイレットペーパーのほうがいいでしょう。紙幣を燃やして暖をとるにしても、あっという間に燃え尽きます。薪のほうがいいでしょう。

ですが、お金ならおにぎりも、トイレットペーパーも、薪も買えます。それらと交換できるからこそ、お金には価値があるのです。つまり、お金は価値あるものと交換できるから価値があるのです。裏を返せば、もし価値あるものがなくなったり、価値あるものと交換できなくなれば、ただの紙くずになりさがります。

本当に価値あるものは、おにぎりであり、トイレットペーパーであり、薪なんです。お金ではありません。

では、だれがおにぎりを作りますか? 農家や料理人や工場、それを運搬する人、小売店で販売する店員など、多くの人々が関わっています。もし、彼らのように、価値あるものを生産する人々がいなくなれば、それと交換できるお金も同時に価値をなくします。なにせもう、価値あるものなんて無いのですから。残った紙幣や硬貨それ自体に価値がない上に、交換したい価値あるものもない。こうなると、お金に価値はありません。

だとしたら、本当に価値あるものは何でしょうか。