人がお金に使われるのは、本末転倒では?

前回

お金で人を道具にする社会への疑問

もし、生きるためにお金が必要であるというなら、何かおかしいと感じます。順序が逆のように思えます。生きる過程にお金という道具を使う機会があるだけのはずではなかったのですか? いつから、お金がなければ生きていけないようになったのでしょう。お金を得るために命を削る。それでは、人のほうがお金を生み出す道具になってしまっています。

もし、経済社会が人を道具にするというなら、私は人を道具にする社会になど参加したくも加担したくもありません。一体だれのための社会なのか、わかったものではありません。支配者のためなのだろうと思ってしまいます。きっとそうなのでしょう。

道具は人のためにあるはずです。けれどお金という道具をもって、人が人を道具にしてしまうなら、人のための社会とは思えません。エゴで動く人間が、自身のためにならないことに、どうして賛同できましょうか。少なくとも、使われる側はそう思うでしょう。

使われるのが嫌なら使う側になればいい。そういう考えもあるでしょうが、違います。使うのも使われるのも違います。自分の思うようにしたいのです。他者からの干渉がない状態です。自分の意思決定に他者の都合が介入しない状態です。なぜ関わること、しかも上下関係を前提にして考えるのか。それ以外の状態だってあるし、それを望んでもよいはずです。

自分で理解、納得して参加しているならともかく、他に選択肢がなくて強いられているだけなら、そこに自分の意志はありません。もっとも、そんなことは産まれてくるときだってそうです。自分の意思で産まれてきたわけでもないのだから、そのまま他人の意思や力によって奴隷にさせられたって同じことだろう? と言われたら、そう思えなくもありません。けれど、現に私はもう存在していて、私には私の気持ちや考え、価値観があります。それを誰かに支配されコントロールされることに、強い抵抗を感じるのです。

お金は人が操る道具であって、人が人を操るための道具であってはならない。私はそう考えます。

私がどう考えようと、世の中が変わるわけでもありませんが、せめてグチくらいは言っておきたかったのです。まだ、それだけの自由はあるはずだと、確認したかったのです。