現代人はお金に使われています。ですがお金は人が作り運用しているものです。つまり、人が人を道具として使うためにお金を使っています。そうした体制を求めている人々がいるのでしょう。そして、そう信じている自分がいます。それらに囚われていることが、支配されている状態なのでしょう。

前回

誰がためにカネはある?

もしお金が人の生き方さえ決めるものだというなら、それにどんな価値があるのでしょうか。誰がどんな価値を見出しているのでしょうか。

他人を支配することで自分が一方的に利益を得たがる人々が、無知な人々を洗脳することで、楽して欲望を満たせるシステムを維持するために、お金儲けをさせたいのではないでしょうか。

お金を汚いと感じることは時代遅れの間違ったことだという主張は、既得権益を守りたい特権階級者のプロパガンダでは? という気もします。それだけがすべてとは思いませんが、人々が金儲けに走ったほうが都合のよい人々がいることも否定できません。それを言わずに、疑問を持たせずに、ただ現状に適応すべきだ、というのは、それこそ時代遅れではないでしょうか。

かつて道徳について疑うな、従えと言っていたのと同じです。神の教えに背くな、信じろ、と指図していたことと同じです。どんな手を使ってでも、他者を支配・コントロールしたいという意図が透けて見えます。そうしたがる人間がいるのでしょう。

人は考える葦である。考えることをやめれば、それはもう人ではなく道具であり装置です。歯車です。社畜です。奴隷です。それでも生きられるなら、それでいいという考えもあるかもしれませんが、私はそれを生きているとは思えません。

大切なのはお金でなく自分です。自分のためにお金が必要という現実も理解できますが、それは「自分とは何か」という定義によって変わってくるところです。それについてここでは割愛します。

支配システムとしてのお金

人の自由を奪う人がいる。人を支配するためにお金というシステムを使っている。

私は、お金がきれいなものとは思えません。たとえ汗水流して働いたとしても、そうして得たお金はどのように使われているのか。そのお金を使うことで、何が起こっているのか。どんな体制が維持・増強されているのか。それを知らず、考えず、ただ自分の努力を正当化したいという身勝手な理由で、お金を尊くきれいなものと考えるのは、いかがなものかと思います。そう考えたい気持ちは理解できますが。そもそも、お金と労働はイコールでなく別物です。

労働は尊いと思いますが、お金は尊いものではありません。ただの道具です。人は大切だと思いますが、お金を大切だとは思えません。ただの道具です。お金はキレイでも汚いでもなく、ただの道具です。

ですが、お金で人も命も健康も時間も食料も買えるとしたら? やはりお金は大切なのでしょう。それでも、お金が大切なわけではありません。その先にあるものが大切なのです。それを忘れて、お金のほうが大切で、それを動かすために人を使い潰すことに、どうしても疑問があります。

人かカネか

大切なのは人のほうであって、お金ではありません。そうあるべきだし、そうあってほしいと願います。

お金で人が人の道具になってしまうなど、私には許しがたいです。もしそのためのにお金が使われているのだとしたら、私はお金を否定します。道具であるべきは、お金のほうです。人が人を道具にするために、お金を使うなら、そんなシステムである経済社会を容認することはできません。

しかし、そうしたお金の使い方をしているのは人間です。ならば、本当に否定すべきは人間のほうかもしれません。銃は人を殺しません。人が銃を使って人を殺すのです。

しかし、そうして人を否定したところで、何になるというのか。言ったところで詮無いことです。何かが良くなるわけでもありません。そうした諦めが、お金というシステムに支配されることを受け入れることにつながるのかもしれません。どうしたものか。

あるいは、問題は社会システムではなくて、自分がどう認識するか、というところにもあるかもしれません。それならまだ何とかなりそうな気がします。それを見つけるためにも多くを知り学ぶ必要があるのでしょう。それはとても難しいのでしょう。けれどそちらのほうが現実的に思えます。

他人に支配されている、という妄執に囚われている。だとしたら、社会からも自分自身からも、二重に束縛されています。せめて後者くらいは解きほぐしたいものです。