私はお金を汚いものと感じることがあります。日本人にはそう感じる人が多いらしいです。その理由について考えてみました。
前回
お金を汚いと感じるワケ
紙幣や硬貨はさまざまな人の手を渡っています。他人の手垢まみれでしょう。物理的に汚いです。けれどそういう意味で汚いといっているわけではないでしょう。それはそれで汚いかもしれませんが。
前回、私は儲けることは人から奪うことだと考えました。もし本当にそうなら、人は人から騙し奪うことを悪行だと思い、忌み嫌うはずです。それがお金を汚いものと感じる理由ではないでしょうか。
汚いのはお金か?
この世界経済社会の中で、お金は汚いと思う感覚を時代遅れだと指摘する人もいます。たしかに生きていくには不都合かもしれません。なにせ現実に、お金がなければ生きていけませんから。汚いからといって稼がなければ死んでしまいます。
生きていくためにはお金が必要です。それはつまり、お金を必要とする命や人生が汚いものであると認めることにもなるでしょう。汚物は消毒すべきだというなら、人は排除すべきバイキンです。このように自己否定することは、生きるのに不都合な考え方でしょう。だからそうした考えを排除したくて、否定したくなるのは理解できます。
ただ、もしそれを真実だと思うなら、汚いのはお金でなく、人でしょう。日本人が嫌悪しているのはお金ではなく、人なのでしょう。
日本人は人が嫌い。きっとそれが「お金は汚いもの」という言葉の真実です。
汚いと思うことに何の意味があるのか
汚いと思う感覚は、持続可能な社会をつくるために必要なことだと思います。人が人を使い潰す社会に、持続可能性はありません。破滅加速性しかありません。嫌悪し、避けようとすることには意味があるでしょう。
でも、なら、どうすればいいのでしょうか。生きるためには生贄が必要なのは事実です。奪う側にならねば、奪われる側になる。それが生物の世界です。その現実は変わりません。それに嫌悪したところで、どうにもなりません。現実逃避したところで、現実は変わりません。
もとより生物は、形あるものは、いつか滅びるものです。なら、持続可能社会を目指すことに、何の意味や価値があるというのでしょう。このまま緩やかに破滅するのを待っていたっていいでしょう。これも自然の摂理でしょう。大いなる流れには抗えません。
でも私は、お金は汚いと感じます。理由はわかりませんが、なぜか持続可能社会を目指すべきだという感覚があります。何の意味や価値があるのか、ないのかなど知りません。この際、どうでもいいんです。私はそう思うし、そうしたいと思うんです。
そして、このようなエゴ・欲望が、人の汚さでありお金の汚さなのだろうと思っています。だからどうした、といわれるとそれまでの、落ちのない話です。
奪ってまで儲けたがる理由がない
日本人はお金を汚いと思い、忌避するから経済弱者である。そんな主張もあるようです。
でも私は、お金が汚いと思うから、お金儲けを避けているのではありません。その能力がないことが一番の理由かもしれませんが、そもそも、たくさんお金を儲けてやろうと思う動機がないのです。なぜなら、私が欲しいのはお金ではなく、自由だからです。
はっきりいって、衣食住があれば十分です。べつにプール付きの豪邸に住みたいとか、高級車を乗り回したいとか、自家用ジェット機がほしいとか、そんなことは思いません。メイドさんを雇ってお世話をしてもらおうとは思いません。
まったく思わないこともありませんが、たぶん一度やったら飽きます。私なんてその程度の人間です。その程度のものを得るために、他人を蹴落としてまで大金をせしめて実現してやろうとは思えません。
分を知り、足るを知る。それが幸福に生きる術だと思っています。
過ぎたるは及ばざるが如し。度を超えれば破綻するもの。何事もバランスが大切。
こうした一個人としての生きた価値観が、お金を汚いと感じる理由なのでしょう。それが悪いことだとは思えません。むしろ、人として正しいことのように思えます。私は、お金は汚いという感覚を支持したいのです。