利益か自由か。どちらに、より価値があるのか。どちらを求めるべきか。どちらも欲しい。
前回
経済的無価値
分を知り、足るを知る。それが幸福に生きる術である。
こういう人は、経済的にみれば価値の低い個体でしょう。もっと強欲で傲慢な人間こそ、より多くのカネを動かす、価値ある個体なのです。経済社会の中では、そうなります。
もし、多くの人々が、たいして大きな野望・野心・欲望をもたなかったら、強欲な支配者の欲望をみたせるだけの労働力を得ることはできなくなるでしょう。それでは困るから、庶民を絞り上げ、飢餓感をあおるのでしょう。生きるためにはお金が必要で、お金を求めざるを得ない状況をつくりだすのでしょう。そのためなら、どんな嘘や悪事だってやってのけるのでしょう。戦争すら引き起こし、長引かせようとするでしょう。
それが見え見えだから、私は人やお金を汚いものだと感じるのです。人を大切にしない社会や人に、なんの価値があるというのでしょうか。そして今、そう思う人が増えてきたから、経済そのものの価値もさがっているのではないでしょうか。
人が人をゴミのように使い潰す社会に、一体だれが価値を見出すというのか。そんな者がいるとすれば、それは人間ではないでしょう。少なくとも人間であるなら、人間にこそ価値を見い出したいと願うはずです。人は人の社会を人の手にとりもどすべきです。そうであってほしいと願います。
利益vs自由
今の経済社会であるほうが都合のいい人々は、他人たちを経済活動へと駆り立てようとするのでしょう。それを受け入れてしまえば、私は大切なものをすべてなくします。
思想、価値観、環境、時間をすべて他人にコントロールされる人生は、はたして自分の人生だと言えるでしょうか。私にはとても思えません。私はただ、自分は自分を生きているんだ! と思える実感がほしいのです。そのためには自由が必要です。
自由だの自分だのというものは、その定義が非常に曖昧です。だから、具体的に何を目指しているのか判然としません。ただ、こうして自分なりに疑い、考え、試し、体験して感じることをしたいのです。それが自由であり自分だと思います。
社会の中だと、そうしたことをすることに価値はないため、その自由を与えられることはありません。遊びでやっているわけではないので当然です。生きるための糧を得るためにやっているのです。
お金を稼げば時間を買えて、その自由も得られるとは思います。だからお金儲けもまた、自由につながるとは思います。でも、他人を蹴落としてまでそれをしていいものか。仕方ないとしても、他の方法がないか探りたいものです。
だからお金を稼ぐという手段で自由を買う方法は、私にとって自由ではありません。そうすることでしか得られないというなら、それは束縛であり不自由です。そもそも、その選択肢しかないと、誰が決めたのですか。私ではありません。
では、私はどうしたらいいのでしょう。わかりません。でも、違うとわかっていることに執着することもできません。新しいことにチャレンジするしかないのでしょう。その自由すらリスクといわれて禁じられるなら、やはり自由がないと言わざるを得ません。そこにどうしても不満が募ります。
経済社会に自由はない
経済的な価値とは、すなわち他人にとっての価値です。多数の他人の価値に沿うものにこそ、価値があるのです。価値があるものにだけ存在することが許されます。
では、そんな社会の中で、一体だれが私の自由に価値を見出すというのでしょうか。他人からみれば私の自由など、目障りなだけでしょう。
もし私が裸になって踊り狂いながら「自由だー!」と叫びまわる様をみたら、人々はどう思うでしょうか。眉をひそめ不快感をあらわにするでしょう。迷惑だと糾弾するでしょう。私だってそんな人をみたらそう思います。そして心の中でこっそり、笑いのネタを提供してくれてありがとうと感謝します。
私としては、その声に出してはならない本音こそ、失われた価値なんじゃないかと思っています。人が生きるにはたしかに糧が必要で、そのためにはそれと交換できるお金が必要でしょう。でも、感謝してもらえ、他人にその有り様を認められることもまた、必要だと思います。それがあれば、多少空腹でもふんばれます。そうした価値を認めることも必要ではないでしょうか。
精神論は他人を黙らせて従わせることに使うのではなく、自分自身を鼓舞するために振りかざすものです。どうして他人をコントロールすることにばかり力を注ぐのでしょうか。そうまでして儲けたい気持ちが理解できません。
いずれにせよ、個人の自由は経済的に無価値だし、秩序を乱す不届き者という扱いになります。立場上、そう言わざるを得ません。もしこんな蛮行を肯定するなら、異端者として自分も排除されてしまいますからね。経済社会からみれば、マイノリティは悪なのです。形のないものは交換できず無価値で、その存在を認めることもできません。
べつにイジメたいわけではありません。自分の立場を守り、生きるために、他人の自由を束縛することは、やむをえない事情もあるのです。
でも、やはり気に入りません。それでは足りません。
自分でやるしかない
自分の自由に価値を見い出せるのは、世界でただ一人、自分自身だけです。だから自分の自由は自分ひとりで守らねばなりません。そして世界で一人の超少数派は、民主的にみて間違いです。経済的にみて無価値です。では、諦めて経済社会に同化すべきでしょうか?
サラリーマンが会社でいわれる言葉に「お前の代わりはいくらでもいる」というものがあります。歯車としての役をあてがわれた者の宿命です。そうして使い潰してきた結果、いよいよ人が少なくなってきたので、はたしてその言葉は今でも通じるのか疑問ですが。はては海外から人柱をとりよせる始末。なんにせよ、これが人を人とも思わぬ社会の末路です。未来があるとは思えません。
今の社会を肯定してもダメで、人を使うだけでも、使われてもダメ。それもそのはず。自分の価値を自分ですら見い出せないなら、価値など生まれるはずがありません。自分の価値を認めぬ自分や他人、社会に従っても、価値はうまれず失われるだけです。
自分の価値は自分でまもり、打ち立てるしかありません。たとえ社会的にみて間違った悪の側面があるとわかっていても。悪者になりたいわけでないとしても。このままではいけないとわかっているのに、何もしないのもまた違うと思います。それを理由にやりたい放題するのも違います。でも、私はエゴによってしか決断できません。どうにか方方に折り合いをつけて、マシになることを目指してやるしかありません。
解決するために独立した単位になる
複雑に絡み合えば解決できません。問題を解決するには、ひとつひとつに細分化し、シンプルにしてから、ひとつずつ潰していけばよいのです。
というわけで、社会、他人、自分はそれぞれ別物として区別し、できるだけそれらと関わらず、自分の問題は自分の問題として、自分で対処する。各自がそれをできる範囲でやれば、いつかそのうちマシになるはずです。私はそう信じて、自分にできることをやります。
これは私がそう考えたので、そのように生きることは、自由に生きることです。私の自由はここにあります。しがらみの中にも自由はあります。自己決定こそが自由です。これぞ私のもとめる利益です。
一挙両得、一発逆転。それは自己決定することによって得られるでしょう。価値を生み出し、認め、定義するのは私たち自身です。
支配され同化すると差がなくなり価値は失われます。逆に、独立し、自立し、差別化することで、価値は産まれます。私たちが価値をもとめるかぎり、ボッチの道をゆかねばなりません。
考えれば考えるほど、分散ネットワーク社会へ向かっているように思えます。